2011年8月28日日曜日

今日は、ディサービスで入浴介助に、朗読に・・・!有意義な一日を過ごさせて頂きました!

 今日は、ディサービスで久しぶりにお手伝いをさせて頂きました。ほとんど寝たきりの状態の方から、ふらつきのある方など、様々な要介護度の方、10数名の方の入浴介助を、汗びっしょりになりながら、介助させて頂きました。「さっぱりしたわ。ありがとう!」「大変な仕事だね」と皆さんが口を揃えておっしゃられますが、逆に私の方が、皆さんが楽しそうに喜んで入浴して下さる姿が何よりうれしくて、体を洗ったり、楽しくお話をしながら介助をやらせて頂けることに、心から感謝しています。また、トイレ介助も、「うさみさんにお願いしたい」と、ご本人様から名指しでご依頼を頂け、うれしくなってしまいました。といいますのも、入浴を嫌がる方、トイレに行きたがらない方等、あの手この手をスタッフも使うのですが、私は、その方の今までの暮らしぶりや性格、習慣など、その方から伺ったお話の中からヒントを得たり、たくさんの情報を基に、一番その方が喜んで下さる話題であったり、その方の性格などを生かしてお声かけをさせて頂いています。いつも、そこがぴったりはまり、嫌がる方が、嘘のように喜んで私についてきて下さるのです。これは、決してだます訳でもなく、トイレやお風呂につれて行くことだけが目的でもないのです。その方の精神状態を、一番穏やかな状態にもっていくような働きかけや声掛けが、結果として、スムーズに目的も達成できるということなのです。認知症の方との接し方を誤ると、悪化させてしまうことがあるのですが、こういった介助側の行動に問題点があるのです。介助者は、どうしても、早く、用を済ませてしまいたいと思うあまり、目的ばかりが先走り、余計に関係を悪くさせてしまうという悪循環が生まれるのです。入浴を嫌がる方の衣類を無理やり脱がそうとすれば、ご本人様は、びっくりして罵声を上げたり、暴れたりして、余計に抵抗するのです。自分自身が、逆の立場だったらと考えてほしいのです。例えば、数分から数十分おきに、トイレに行かないと落ち着かない方がいらっしゃるとします。スタッフも顔に出していないつもりでも、ちゃんとご本人様は、察するものなのです。ところが、スタッフが心から嫌だと思わず、快く対応し続けると、時間がぐっと伸びるのです。不安な気持ちにさせないで、この人に言えば必ず、快く、いつでも連れて行ってくれると思えば、そのスタッフがいるだけで不安感がなくなるのです。手前味噌になってしまいましたが、久しぶりにディサービスに行ったにもかかわらず、その方は、ちゃんと名前まで憶えていて下さり、その一助を担うことができたことがわたくし自身、うれしかったのです。また、ボランティアでも、やっていた朗読は、席を立つ方や勝手な行動をする方が一人もいなく、むしろ、水をうったかのごとく、皆さんが集中して、喜んで聞き入って下さり、アンコールのリクエストを受け、おじいさんやおばあさん、娘や神様など、何役もの声色を使い分け、3冊読ませて頂きました。みなさんの目の輝きがうれしくて、更に、心を込めて読み上げました。どなたも昔話は、とても懐かしがられ、絵本の絵の視覚からも、刺激を受けて下さり、本当にやりがいを感じます。
 今日、ディサービスに行って、びっくりしたことがありました。それは、認知症が結構進んでいらっしゃる方までもが、私が議員になったことをケアマネさん達やご家族様から聞いたとおっしゃり、知っていて下さったのです。認知症の方は、新しい記憶を植え付けることが難しく、認知症でない方でも、ご高齢になると記憶の刷り込みはだんだん衰えてくるのですが、半年が経とうとしているにもかかわらず、選挙選当時の話をして下さったり、びっくりするくらい、しっかりと覚えていて下さり、新聞記事を探して下さっていたことを知りました。有難いやら、恥ずかしいやらで、穴があったら入りたい気持ちでした。皆さんが、そこまで関心を持って下さり、良い刺激になったことや、我が子のように喜んで下さる姿を拝見し、そのご期待に絶対に恥じないように、何としても、皆さんのお役に立てるよう、介護の現状を名古屋市に伝え、より良い福祉政策の構築に、全力で取り組んでいきたいと決意を新たに致しました。
 皆さんの笑顔を拝見し、今日一日だけで、たくさんの元気を頂いて帰ってきました。とても、有意義な一日をご一緒に過ごさせて頂き、本当に、ありがとうございました。次に、お逢いできる日を楽しみにしています。くれぐれもお元気でいて下さいね!

2011年8月24日水曜日

また、ひとつお役に立てました!

 「路上駐車が邪魔」「イベント時には、仮駐車場を作って欲しい」「小さな子どもが交通事故に遭っては大変だから、何とかして欲しい!」「おじいちゃん、おばあちゃんも、出掛けたいが車を停めるところがない」等、様々な立場から、同じ公園での車対策について、ご意見、ご要望を頂きました。
 やはり、路上駐車は、見通しが悪く、小さなお子さんが交通事故の犠牲者に遭ってはならないと思い、早速、動きました。
 この公園は、都市計画で公園拡張整備が進められている途中のため、整備されていない土地は、財政局が管理をしており、事情をお伝えしたところ、整備が始まるまでの期間ならば、貸して頂けることがわかりました。
 近くにある幼稚園には、有料になってしまうのですが、その旨をお伝えすると、ひとつ返事で、ご了承を頂け、大喜びで幼稚園の運動会などのイベント時に借りて下さることになりました。名古屋市としても、賃料として収入が入るため、職員も喜んでおりました。地元住民の方々には、今年の盆踊りには間に合いませんでしたが、これからの町内などのイベント時には、お貸しできることをお伝えしたところ、大変喜んで頂くことができました。皆様から何気なく頂いたお言葉を聞き漏らすことなく、即、疑問に思ったら、動いてみる。コツコツと小さな積み重ねで、住みやすい名古屋にしていきたいと思っています。
 きっと、名古屋市の眠っている土地が、他にもたくさんあると思います。ぜひ、こんな活用方法も提案していきたいと思います。
 地域の不満や疑問、どしどし、ご意見をお聞かせください!

2011年8月20日土曜日

震災から5か月!たくましい被災地の皆様に頭が下がる思いでいっぱいです!

8月10日朝いちで、名古屋を出発し、大船渡町山馬越の介護老人福祉施設「ひまわり」・グループホーム「ひまわり」・赤崎町の小規模多機能ホーム「後ノ入」・グループホーム「後ノ入」を訪問、視察後、短い時間ではありましたが、認知症の方のお話相手の傾聴ボランティアを夜までさせて頂きました。震災で一般の町民の皆さんが、家を流され避難してきたため、寝るところがないほどの方々が、この施設に寝泊まりされたとのことでした。認知症の方にとって、その賑わいが刺激になり、介護度が4だった方々が2に軽くなったというのです。私にも、堂々めぐりのお話をされていらっしゃるかと思うと、津波の話をされ、短期記憶は、本来記憶として残らないのですが、津波を実際には見られていないはずなのですが、しっかりと記憶されていたため、びっくりさせられました。夜まで、話が尽きず、泊まっていってと何度も誘って下さるので、私で、お役に立てるのならば、本当にお言葉に甘え、泊まらせて頂こうと思ったほどでした。また、これらの施設の理事長様は、介護保険法が施行される以前の1997年から「全国痴呆性高齢者ケア大会」を実施され、翌年にはオーストラリアと共同研究を開始、その後イタリアと共同研究をされるほど、最先端のケアを実施されていらっしゃる施設で、私も取得しました『認知症ケア専門士』の日本認知症ケア学会の東北地域部会長も拝命されておられ、震災がきっかけで、素晴らし方々にお会いすることができ、感動しました。
翌日の8月11日朝いちで、円城寺様に向かい、ご仏壇を搬入し、ご仏壇を流され、手を合わせるところもない檀家の皆様の切なるお気持ちを伺ってまいりました。名古屋市南区の稲葉仏壇さんのご厚意に、私からも感謝申し上げます。
大急ぎで、陸前高田市仮設市役所に向かい、同敷地内に開設された全国の若い市長で立ち上げたばかりの『陸前高田市復<幸>応援センター』にて、松阪市副市長にご挨拶をさせて頂きました。8月20日には、松阪市長とお会いすることになっていたため、ここで松阪市長のご活動に直接出会うとは、びっくりさせられ、そんなエピソードなどもお話させて頂き、更に親近感が湧きました。その日の当センター開設のブログに、私たちが訪問したことが記事になっており、私たちの名前も載せて下さっていて、びっくりしました。ぜひ、皆様にも、当センターのブログを見て頂き、若き市長さんたちのご活躍を応援して頂けたらと存じます。
次に、内閣府から就任したばかりの久保田副市長と意見交換の時間を頂戴することができ、仮設住宅の問題や助成金の1日も早い支払の要求、失業問題、ボランティアの派遣方法の改善策等、宿の女将さんや施設の職員さん、現地の職員さんや町民の方々などから伺った生の声をお伝えし、いろいろな質問にも、答えて下さいました。8月11日から始まる「陸前高田市議会、復興対策特別委員会」で、ぜひ、審議して頂きたい内容を副市長と直接、話し合うことができ、少しは陸前高田市民のお役に立てたかと存じます。数々の市内被災現場と港の液状化した現場に、再び足を運び、現地視察を行いました。2か月前に訪問した時と比べ、陸前高田市内は、随分瓦礫の分別や橋の修復も完成し、コンビニやスーパー、青空市などもでき始め、町にも活気が戻り始め、復興が進み、津波が何もかも奪い去った跡地に、たくましく雑草が生え始めていました。それに比べ、他の市町村は、ほとんど手つかずのままの状態と言っていいほど、復興へのスピードの差が歴然としていたことがとても、印象的で、これこそ、政治の力の差であることを思い知らされました。とにかく、「名古屋の皆さんの支援のおかげで・・・」と、地元の方々が口を揃えて、感謝の気持ちを伝えて下さいました。名古屋の皆さん、本当に、深いご理解を頂き、減税の原資からご支援を頂き、ありがとうございます。また、復興が遅れている皆様方に申し訳ない気持ちで一杯になりました。1日も早い復興を国に訴えていきたいと思います。今しばらく、お待ち頂きたく、お詫び申し上げます。
11時、介護老人保健施設を訪問。ここは、高台にあり、この敷地の真下を津波が通過していったとのことで、多くの市民の命が助けられたそうです。しかしながら、津波は逃れたものの、建物の天井やガラスなどが破壊され、施設内の高齢者も、雪の降る極寒の中、外に避難しなければならなず、一人の犠牲者がでなかったことが奇跡なほどの状況だったことなど、貴重なお話を伺うことができました。日頃より、県立病院と非常事態に備え訓練を行っていたことが功を奏したとのことでした。ぜひ、名古屋でも、それらの教訓が生かされ、その体制作りのために、避難の指揮をとられた入澤看護部長様に、ご講演を依頼したいと考えています。
お昼の食事を摂る暇もなく、午後からは、長寿福祉課の佐藤様から、在宅介護の現状と被災時の状況、今後の課題について、お話を伺いながら、いろいろな質問をさせて頂きました。多くの居宅支援事業所が津波で流され、ケアマネ・ヘルパー、利用者様、そのご家族もながされ、市役所の職員も3分の1の方々がお亡くなりになられ、書類も全くない中、大活躍されたのが、残されたケアマネさん達であったことを知りました。ケアマネは、利用者様本人の病気や服用している薬や緊急性の高さや支援の必要度等やご家族様の情報も把握していた為あちこちの避難場所を捜し歩かれたそうです。なにより、前述の松原苑でのお話と同様、地域のコミュニケーション力(りょく)が、何より大切であることを、改めて学ばさせて頂き、名古屋市の重要課題と認識致しました。
翌12日は、東京で開かれたフォーラム『介護保険制度改正についての動向をさぐる』に出席し、最新の情報を手に入れることができました。介護の現場と国の政策の意図が擦れ違っていることがもどかしく感じられました。介護保険制度設立時より、携わってこられている介護保険制度の第一人者である白澤政和先生と、セミナー終了後に1対1で、お話をさせて頂け、陸前高田から直接会場に来たことをお伝えすると、先生ご自身も10日に現地入りをされており、佐藤さんに現地を案内してもらったことなどがわかり、意気投合し、話が盛り上がり、興奮冷めやらぬといった心境でした。
ご仏壇を被災地にお届けすることがきっかけで、再び、現地入りをさせて頂け、支援に携わっている多くの方々に、貴重なお話を伺うことができ、逆に、私の方が、たくさんの地元の皆様の温かさに触れ、勇気と元気と希望を頂いた気が致します。9軒の家や旅館や借家などを津波で流され、まだ、ご自宅のご仏壇も買いに行けてないことも忘れていたとのこと、復興支援の社員さんたちやボランティアさんに、お風呂や食事、宿を、不眠不休で提供して下さっている大船渡町の「とりい荘」の女将さん。グループホームに通っている78歳のおばあちゃんのご主人様が大工さんで、現在、地元の杉の木を使って手作りで、ご自宅を建築中とのこと。「泣いてばかりいられないよ!」と笑顔で答えて下さいました。新しい家ができることが、今の楽しみとのことで、仮設住宅で暮らしておられます。本当にたくさんの素敵な笑顔に出逢うことができました。2か月前とは、全く違う大きなおおきな成果を得て帰って来れた気が致します。ぜひ、名古屋のための生かし、現地の方にご恩返しをしてまいりたいと存じます。

2011年8月10日水曜日

陸前高田市と大船渡市の介護の現状と災害時の教訓を学びに行ってきます!

 お仏壇をお盆までに、被災地に届けることが気っかけで、再び、被災地の東日本にご縁を頂き、現地入りをしてきます。今度は、特に在宅介護・施設介護を中心に、港の液状化も、視察してきたいと思います。
 私が、思った以上に、現地の介護の現状は悲惨で、在宅介護が特にひどい状態のようです。在宅介護の事業所も、ヘルパーさんも利用者様も車も、なにもかもが流されてしまい、視察先の問い合わせすら、できない状況でした。
 しっかりと、生の声を伺ってきたいと思います。現地では、介護福祉士・社会福祉士・認知症ケア専門士等の有資格者のため、とても、喜んで待っていて下さいます。頑張ってきます!
 

2011年8月8日月曜日

港区公職者会・区政協力委員長との防災に関する意見交換会に出席!

 港区公職者会と区政協力委員長との防災に関する意見交換会は、今回初めて開催されたとのことで、出席をさせて頂きました。活発な意見交換がなされ、あっという間に一時間半余の時間が過ぎ、意見が尽きませんでした。何と言っても、私自身の『うさみいく愛新聞・・・今こそ地域力が試される時!』にも書きましたが、企業や民間の高層マンション等にも、お願いをして、いざという時には、津波避難ビルとして上層階への避難の受け入れをして頂ける体制づくりの確立に向け、この暑い中、区政委員長の皆様方が一軒一軒お願いに上がって下さっていたことに、びっくりしました。心より感謝申し上げます。
 18学区の委員長がご参加下さり、様々な意見が活発に、熱心に語られました。学区により、津波避難ビルに恵まれている(?)といいますか、高い建物が存在するとしても、その要件に満たないところが多く、無いに等しいところが多いのが現状で、口を揃えて、津波避難ビルの新規建設を望まれていました。しかしながら、その用地の確保も難しく、収容人数や逃げるまでの時間や高齢者の足を考慮すると町内単位での建設を望まれるご要望が多く、本市にとって、大きなプロジェクトであることは、間違いないと思いました。企業においては、セキュリティが厳しく、社員ですら上層階には上がれない現実に直面されたとのことで、訪問前と帰り道では、相当のギャップを感じたとの意見もありました。民間マンションは、やはり、現在、オートロック式が多く、鍵を事前に渡しておくことに抵抗があり、ほとんどのところが、住民の賛同が頂けず、弊害になっているとのことで、多くの課題をクリアしなければならないと痛感いたしました。学区ごとにある小・中学校が、津波避難ビルに指定されていないものが多く、4階建て以上の校舎も珍しく、屋上もただの平面であったり、上る階段も急だったり、フェンスもない状態であることや、開校時には、そこの生徒が全員避難するだけでも45分も時間がかかったとの報告もあり、スペースも児童だけでいっぱいになってしまい、とても他の人まで受け入れできる状態ではない現実が、明るみになり、これらのことは、ほぼ学区全域での共通の課題であることがわかりました。
 私は、平成15年に立候補させて頂いたときに掲げておりました防災リーダーと防災ボランティアの養成を強く訴えておりました。その経緯と今回の大震災を踏まえ、当選してすぐに、その進捗状況と詳細の把握に取り組みましたが、未だになかなか進んでいない現実にも直面しておりました。そんな中、私の住んでいる西築地学区は、港湾会社等も多くあるため、昼間人口と夜間人口が異なり、避難の仕方も変わってくるため、町内単位で、防災リーダーをピックアップし、訓練を重ねることで、住民の防災への意識を高めていきたいとのと、更に一歩踏み込んだ発言もあり、ぜひ、港区全域で実現していきたいと思いました。
 津波避難ビルに意見が集中する中、「この地域の過去の災害を紐解き、一日も早い、正確な情報が欲しい」「ハード面で、新川の堤防をもっと高くしてほしい」「いやいや、全市民の生命・財産を守るためには、高潮防波堤だ!」など、高潮防波堤の機能強化の要望も上がり、一日も早く、国へも強く要望していくことを固くお約束をさせて頂きました。この会も引き続き、重ねていくことと致しました。
 

2011年8月5日金曜日

ご仏壇をお盆までに届けたい!湯川議員と私で運転をして、陸前高田市のお寺に届けてきます!

 取り急ぎ、お盆までに現地の被災者の皆様方に届けたい!という思いから、湯川議員と私が交代で運転をすることになり、早速、来週半ばに届けてきます!今、道の確認はできましたが、新潟経由か東京経由かを迷っています。しかも、カーナビが付いていない、普通のライトバンですので、1000kmの長距離運転がとても心配です。加えて、宿泊先が見つからず、困っています。

ご仏壇を被災地陸前高田市に支援物資として届けることができるように、早速、動き、ご賛同を頂けました!

 ご仏壇を被災地陸前高田市に届けるのに送料がかかるため困ったという陳情を受けました。私は、6月の現地視察時、「身内や身近な知人を亡くされ、家もお墓も流され、悲しみを通り越して、絶望的になられているのでは・・・」と、表現ができない感情に打ちひしがれ、涙が溢れ、止めどもなく流れ、頭が痛くなるほど、泣いてしまいました。自分の無力ささえ感じました。そんな中、このお話を頂き「ぜひ、私もお手伝いさせてください。届ける時も同行させて下さい。」と逆にお願いをさせて頂きました。「絶対にどんなことがあっても届けなければ・・」と固い決意で、その方々と別れたその足で愛知県トラック協会さんにお願いにあがりました。一年生議員、門前払いを覚悟でアポなしで訪問させて頂きました。やはり、会社にはご不在でアポなしには会えない旨を告げられ、帰されました。でも、一刻も早く、糸口を見つけなければと、その足で、ご自宅を尋ねたところ、父の時代からの繋がりもあってかと存じますが、快くご自宅に通して頂き、その方も「そうか、水や食料を愛知県トラック協会も運んだけれど、次に被災者が本当に欲しいものだなぁ」と鶴のひと声で、ご賛同を頂くことができました。
 やる前に宣言することは本来は嫌で、実際に行ってから報告すべきだと思いますが、ここで一言お伝えしておきたいことがあります。常々団に対して申し出ていますが、思いが伝わらず、「またまた、うさみさんはいい恰好して!」と相手にして頂けていないため、逆に団に対して、既成事実を作りたい意味合いを込めて発表させて頂きます。私は、市議会報酬の差額分と名港議会報酬を団に預けていますが、その全額を被災地に寄付させて頂く所存でおります。少しでも被災者の方々のお役に、復興のお役に立てればと存じます。これも、本来は、名古屋市の血税でありますが、名古屋市会議員から名古屋市には寄付できない決まりがあり、お返しできませんので、これは、私からではなく、名古屋市民の皆様からの寄付です。ぜひ、ご賛同を頂けたらと存じます。私は、DV とか虐待という言葉もない時代に、夫からのDV・こどもへの虐待を受け、家も家財も売り飛ばされ、食パンの耳を食べても三人の子供たちを育てていこうと決意し、命からがら逃げて参りました。今、こうして命があり、子どもたちもなんとか育ったのも、本当にたくさんの方に助けて頂き、励まして頂けたおかげと、心より感謝しております。そのご恩返しがしたく、議員に立候補させて頂きました。こんな私が、と自分自身で思いますが、こんな私にもできることをと考えております。私よりも、もっともっと苦労をされていらっしゃる方が大勢いっらっしゃると思いますので、奥がましいとは存じますが、苦労した分、人の痛みがわかる気が致します。何事も感謝の気持ちを忘れず、今、自分が生かされている意味を忘れることなく、皆様のお役に、ひとつでも立てるよう頑張っていきたいと存じます。

名港管理組合の港湾視察、徹夜で勉強した甲斐がありました!

事前質問は、先日ブログでも報告させて頂きましたが、現地で頂いた資料やプロジェクターでの説明や現地港湾を拝見し、更に聞きたいことが湧き出るかのごとく、どんどん出てきました。手前味噌になりますが、受け身の説明だけに留まることなく、積極的に通訳の方を通じて質問できたことを自分自身本当にうれしく思いました。これも、何日もかけて、しっかり勉強をして行った甲斐があったと、自負しております。台北で説明をして下さった方は、名古屋港に一度も来られたことがないとので「名古屋港は、水族館や公園があり、とてもきれいな港と聞いています。台北も、名古屋港のようなきれいで、市民の憩いの場所となる港を目指しています。・・・」とのご挨拶を頂き、私は、世界からはそんな風に感じてもらえているのかと、思わずうれしくなってしました。お世辞だとしても世界からは良くも悪くも常に評価されていることに気付かされ、旧イタリア村の跡地問題や水族館の目玉であるシャチの件等、本当に早く解決しなければと心に誓いました。私は「身に余るお褒めを頂いた名古屋港水族館から歩いて5分ほどのところに生まれ育ちました市会議員のうさみいく愛と申します。」と最初にご挨拶をさせて頂いたところ、満面の笑顔で対応下さいました。現地で頂いた港湾計画資料から、電力専業区について、質問をさせて頂きました。「台湾は日本に次ぐ地震国と聞いています。東日本大震災の福島原発事故を踏まえ、台湾では、今年5月に、順次、原子炉の廃炉と今後延長をしない方針と自然エネルギーへの転換を発表されましたが、この計画を立てられたときは、この場所には何を計画されていたのか、発表された後変更されたのならば、その点について教えてください」と質問をしました。その場所は私の予想に反し火力発電を計画されていたとのことでしたが、地元住民から二酸化炭素などの環境への配慮から猛烈な反対があり、計画が中断していたところ、原発事故を目の当りにし、台湾国民の考えが変わり、火力発電に賛同が頂けたとのことでした。特に印象に残ったことは「素晴らしい技術を持つ日本で原発事故が起きてしまったことに、本当に台湾国民は衝撃を受けています。台湾は火力発電にシフトしたけれど、遠い将来になるかもしれませんが、日本が必ずや福島原発事故も解決し、更に事故を起こさない性能の良いものを開発してくれた時は、原子力発電を利用したい。」とおっしゃられたことでした。福島原発事故は、世界中に波紋を起こし、大きな国策さえも変えてしまうほどの、その影響力に改めて、原発の恐ろしさを感じるとともに、世界中が注目している福島原発の一日も早い収束を心から願わずにはいられない心境でした。台北港と高雄港においても、質問をした議員は2~3名と限られており、中でも、私の質問には、なぜか、現地の港湾局長が表情を強張らせ、通訳に長々と説明をし、通訳も言葉を選びながら答えて下さり、「あなた、よくご存知ですね。どうしてそんなに台湾の港湾の事情を知っているのですか?」と局長から逆質問をされたハプニングがあった程でした。結構、原発問題やアピールポイントにしていた点を追求したことや、名古屋港や中国との比較をする質問が、当局にとって痛いところを衝かれたようでした。「中国と北米とのダイレクト便が増加してきたことにより、高雄港でのトランシップ貨物の減少が危惧されますが、その点についてなにか対策をされていますか?」という私の質問には、本当に言葉を詰まれせてしまい、私の方がびっくりしてしまいました。回答は直球で「危惧しています。今、全力を尽くして対策を練っている最中で、一番の課題です。」等のとても困った表情で回答を頂いたため、私は「高雄は、アジアと北米を結ぶ太平洋航路とアジアとヨーロッパを結ぶ欧州航路という名古屋港よりも恵まれた素晴らしい立地条件にありますので、ぜひこれからもがんばってください」と笑顔で返すと、とても喜んで下さり安堵されたご様子でした。そのほかには、「1999年の台湾地震では、港湾はどのような被害を受けたか」「液状化してしまったふ頭は、復旧をして現在使用しているのか、それとも新しく作り直したのか」「復旧までの期間はどれくらい要したのか」「耐震の岸壁強度はどれくらいを基準にしたのか」「災害時の支援物資の受け渡しができる岸壁は指定しているか」「最高の効率と最高のサービスをアピールされておられ、通関の輸出入の手続きの短縮で効率化を図れていると聞きましたが、それは書類を簡素化したのか、それとも人員を増やしているのか、他にどのような工夫をされているのか」「通関手続きの短縮を図られているとのことですが通関には、実際どれくらいの時間がかかるのか」「台湾港は、現在、国の公務局が管轄しているが、『会社化』をしていくとの説明がありましたが、それは具体的にどのようなにしていくのことですか」等々、書ききれないほどの質問をさせて頂きました。金(きん)局長は、名古屋港にキャプテンとして何度も入港されていた経緯があり、とても親近感をお互いに持つことができ、会議室での質問に始まり、屋上での質問、そして海上を見ながらの船内での質問と会話が途切れることなく続き、数々の質問の中から即答できない質問もあるとのことで、後日、名港管理組合宛に回答を下さることになり、通訳さんが「宿題ができちゃいました。頑張ります。」とチャーミングに苦笑いをされておられたのが、印象的でした。帰りの飛行機では、疲れも重なり、吐き気を催すほどでしたが、それに耐えながら、血税で視察をさせて頂けたことに感謝しつつ、最後の最後まで、視察をさせて頂きました。吐き気と闘いながら、窓の外を必死でのぞき込み、上空からも数々の台湾の港湾を間近かに見ることができ、着陸時は、名古屋港(四日市や飛島・なべたふ頭)をひとつひとつ確認することができ、GPSハロー計であろうものも目視することができました。現地視察は、本当にハードスケジュールで、トイレに行くにも、荷物を受け取るにも時間の猶予がないにも関わらず、猛暑の中、時間通りにバスが到着していなかったり、早めに到着しても、現地は昼休み時間とのことで、猛暑の中を待たされたり、お国柄の違いも痛感しました。バスガイドさんが、「中国の人、ご飯の約束しても時間より遅れて来る。偉い人ほど遅れて来る。なぜか?卑しいと思われるから。日本人、時間通りに来る。恥ずかしい。」「時間の約束守らないと日本人すぐ怒る。中国の人遅れても絶対に怒らない。謝らない。空港で日本人と中国人の見分け方、すぐわかる。なぜ?ペコペコ頭下げる。電話に向かって、テレビ電話でもあるまいのに、ペコペコお辞儀している。すぐわかる。」と言われ、苦笑いをする一面もありましたが、新幹線も日本製の台湾仕様とのこと、大きな荷物を置くスペースがあり、絶大なる人気の日本車の性能の良さ等、これもすべて、まじめで誠実な日本人の国民性が生み出す『信用』という財産なのではと改めて、日本人である誇りを感じるとともに、世界の経済も日本が担っていることに自信を持ち、日本の良さをもっともっとアピールしていきたいと思います。市民の皆様、本当にありがとうございました。必ずや名古屋港の貿易高の向上・名古屋の発展のために生かしていきたいと存じます。